令和2年11月(霜月)の行事予定nado

10月の月次法要と奉賛会祈祷法要を実施

10月17日の8時半から、10月の月次法要と奉賛会祈祷法要が合同で執り行われました。今回もコロナ感染防止のため3密対策やマスク着用などのご協力を得て、方丈様おひとりの内献法要とさせていただき、おもな参拝者も石観世音委員や役員のみとさせていただきました。祈祷につきましては、10月の月次法要5名の方の祈祷と奉賛会会員の136名の方の祈祷を静粛に行うことができました。

安全地蔵法要のきっかけは?

 安全地蔵法要が10月13日に行われました。この安全地蔵は参道の中腹にかかっている神明橋手前にあります。この法要が行われるようになったきっかけは、安全地蔵の左側のやや小高い所にある万葉歌碑が刻まれている大きな大碑石と深い関係があります。

 この大碑石は、もともと神明橋右側の御方(おんかた)神社側にあったそうです。それを現在の場所に運ぶときに神明橋に異変が起きたそうです。その様子を石観音沿革(巻二)より見てみます。

この大石は、「観音川の神明橋上手…の山裾に頭を出して居たものである。運搬は敦賀の業者に依って為されたものであるが、道中の神明橋は石橋にて果たしてこの大碑石運搬に堪え得るかについて、いろいろと詮議の上、支柱を幾本も樹て(たて)、足場板も数枚を渡し、これで大丈夫と云うので夕暮れには無事対岸に運搬できたので一同安心、悦び合い帰宅したのである。扨て(さて)、翌朝現場を見ると橋の石材三本の内(うち)壱本は無残にも二つに折れ、河中に落ち込んで居るではないか。一同一時は唖然とした」というのです。

 この石橋は、もともと土橋だったが、明治25年に石橋に架け換えられたものだったそうで、この石橋3本の内1本は破損したが、今後時代の変遷で参詣者や観光者の増加にかんがみ、いかなる重量でも小・大型車に耐えられる構造が必要と考え、旧三方町当局にもお世話になり見事に出来上がったという。その年昭和37年10月13日には初代石観音委員長山中米次郎氏老ご夫妻を先頭に厳かに渡橋式が行われたといいます。安全地蔵法要にはこうした経緯がもとになっていたのです。

 さて、こうして運ばれた大碑石に万葉歌集の1首が刻まれています。万葉歌集におさめられている歌は629年から759年といいますから、飛鳥・奈良時代にまでさかのぼります。その歌の中にこの三方の地を愛(め)でた歌が紹介されているのです。
「若狭なる 三方の海の はま清み いゆきかえらい 見れどあかぬかも」
この碑の文字の筆者は、和歌の大御所佐々木信綱先生の90歳の筆になるものだそうです。沿革史を著した当時の筆者五井八之助氏の言葉をかりて結びにします。
「萬葉の昔より三方湖を讃えられた歌が、湖畔の高台に毅然として聳え(そびえ)、佐々木先生のご筆跡と共に、永久に見る人の心情を掴むことであろう。」

10月2日の石観音一斉清掃日の作業の一端として、国道沿い大駐車場の松やドングリの木などの剪定を行いました。そのときあまりにもたくさんのドングリが木の周りに落ちていて驚きました。休憩時の話題は、こんなにドングリが落ちていても動物は食べに来ないのだろうかに始まって、このドングリの名前は?にまでなりました。誰も知らないようで、「アラカシとかシラカシじゃないの。」と話していました。それにしても今年は熊のエサとなるドングリが大凶作といわれるのに不思議な気がしました。ドングリについては気になっていたので調べてみました。木の様子や葉の形、果実の底の部分が少しへこむということからすると、どうやらこのドングリはマテバシイだろうと云う結論に落ち着きました。それにしても動物たちは国道沿いにまでは危険を感じて近寄らないのだろうか、ただ捨てるにはちょっと惜しい気がしました。

11月 の 行 事 予 定

〇 11月3日(火)・太子祭
 
聖徳太子堂に於いて参拝者や登山者の安全祈願の法要を行います。
〇 11月14日(土)・三方石観音清掃日
 
石観音委員全員で観音堂その他の雪囲いを行います。
〇 11月17日(火)・月次(つきなみ)法要
 月次法要は、毎月17日に行うご祈祷希望者のための合同祈祷の日になっており、ご本人の希望の願意にもとづいてご祈祷が行われます。もちろんご祈祷を希望されていない方も自由にお参りいただけます。
〇 11月30日(月)・月末の合同祈祷日
 この日は、毎月の月次法要と同様に、ご祈祷希望者のための合同祈祷の日になっており、参拝者ご本人の希望の願意にもとづいてご祈祷が行われます。

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

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