「三方石観世音分身 厨(くりや)観世音」法要
「矢部氏は三四郎家の長男で生来健康にめぐまれず拾九歳のみぎり生死の間をさまよう大患に襲われたり。時に若狭三方石観世音菩薩の霊徳広大なるを聞く。即ちその溪聲山色ゆたかなる大悲山に参籠し、一心に観音の大慈を仰ぎ病魔悉く退散す。由来観音信仰に生涯を通し、世のため人の為め無我の奉仕をささげ…云々」と矢部三四郎氏銘にあります。氏は後に、三方石観世音の関係者との合意を得て、昭和31年には奥の院の雄滝を挟む左手断崖に社殿を配置して、毎年11月3日に「奥の院大祭」という行事を行ってきました。しかし昭和40年度以降に両方の協議により奥の院大祭は「奥の院火祭り」と改称され、現在は三方区の祭礼として7月17日に三方石観世音が行うことになり、石観世音十七夜火祭りというかたちで今日に至っています。
「奥の院大祭」・「奥の院火祭り」、
現在の「石観世音十七夜火祭り」へと変遷した経緯は・・・
先日6月18日に厨(くりや)観世音大祭法要に招かれ、臥龍院の方丈様お二人と石観世音委員長、世話方の二人が出席したこともありましたので、ここでもともとの「奥の院大祭」はどのようにして行われるようになったのかについて、「石観世音沿革 巻二」を参考にしながら再度ふれてみたいと思います。
厨(くりや)観世音とのかかわりのきっかけは、福井県の越前町厨の矢部氏という方が若い時に病魔に見舞われ医師に見放された折り、三方石観世音に参籠して一心に病気平癒祈願に入ったことだといいます。「その日より薄紙を剥ぐがごとく軽快に向い茲に二十五年、その間再三病魔や苦難に遭遇し、その都度霊験御利益を蒙り感激の餘り、更に仏縁を結ばんが為、奥の院草創を発願せられた」とあります。その後、矢部氏と石観世音の間で、
ⅰ 奥の院社殿は矢部家において造営する。
ⅱ 敷地は関係者見分の上敵地を決定する。
ⅲ 拝殿および拝殿の敷地は、区内の労力奉仕及び石観音に於いて之を行う。
ⅳ ご本尊は天坊魔王を招魂する。
という4項目の内容で互いに納得して現在の奥の院に社殿・拝殿を造営することになったようです。
そして、丹生郡白山村杉山の欅の根返りして十数年を経た古木を用いて社殿を造営した際に、欅材に挟まっていた黒石二つを奥の院の御霊石とし、天坊魔王の点眼を受けることとして、昭和31年11月3日に上棟式、鎮座式を、翌4日に点眼式を行い、それ以降毎年11月3日の夜間に「奥の院大祭」が催され、護摩祈祷が行われたそうです。しかし後に、この日は文化の日のさまざまな催しがある事や天候不良の日が多いこと、夜間登山が一般大衆の参拝不能を招いていることなどの理由で、協議の末、「奥の院大祭」を「奥の院火祭り」と改称し、三方区の祭礼として取り組まれることが承認され、今に繋がってきているといいます。
さらに、当時行われていた護摩祈祷は青空講が中心だったようですが、現在の護摩祈祷は、区内の皆さんに呼びかけていることはもちろんですが、本堂に護摩木を置き全国の参拝者にも一年中日常的に呼び掛けて併せて石観世音十七夜火祭りとして護摩祈祷を行うようになっています。
石観音奥の院「天坊魔王」とは…
石観音奥の院の拝殿の中央には、「天坊魔王」と力強く書かれた額が飾られています。この天坊魔王については、聞いたことはあるもののその意味や天坊魔王にまつわるいわれなどについて詳しくは聞いたことがありません。石観音の沿革史等の中にもわずかに触れているだけで詳しい記述はありません。
そのような中で、浅妻正雄氏(美浜町文化財保護委員)による「わかさ ふるさと散歩」のなかに、「石観音奥の院の天坊魔王を考える」の一文を見つける事が出来ました。その内容から理解できる範囲で天坊魔王について述べてみたいと思います。
(このあとの浅妻氏の見解は、石観音初版のパンフレットや石観音沿革史を参考にしています。)
「天坊魔王」という言葉は、石観音の資料にはほとんど出てこないのですが、はっきり出てくる箇所が2か所あります。
その一つは、矢部氏が再三病魔や苦難に見舞われながらも石観音のご利益を蒙り、それがきっかけで仏縁を結ぶため奥の院草創を願い出たところ、奥の院社殿を矢部氏が、拝殿を三方区及び石観音が造営することになったといいます。そして御本尊は「天坊魔王」を招魂すると決められた箇所です。
もう一か所は「社殿用欅(ケヤキ)材は丹生郡白山村杉山の大山氏より十五尺高一条の欅の根返りして十数年を経た古木を見出し、…製材所にて手挽きで挽き割ったところ、黒石2個が欅材の中に挟まって出てきた。これも偶然とは申しながら奇跡である。故にこれを奥の院のご霊石とし「天坊魔王」の点眼をうけることになった。「…昭和三十一年十一月四日午後 奥の院御霊石 点眼式「天坊魔王」招魂」の部分です。
「天坊魔王」に関してはこれ以上の記述はなく、あとは浅妻氏の調査から分かったことの推論という形で論じられていきますが、興味を引く事例が三つありました。
その一つは、三方には昔は鞍馬講があり毎年お詣りしていました。その鞍馬寺の奥の院魔王殿の本尊が「護法魔王」だというが、「天坊魔王」との関わりが不明だと述べています。二つ目は、石観音への信仰心が強い某氏の言葉を取り上げて、“昔、誰か霊感者がつけられた名であると思う。観音様をお守りする天坊魔王だと思います。”は、きわめて示唆に富んだ発想ではないかと思うと述べています。三つ目は、“これを奥の院のご霊石とし「天坊魔王」の点眼をうけることになった”という記述について、「黒い石」の「ご霊石」よりも以前に、早くから「天坊魔王」の名が既に存在していた可能性を主張したいと氏がのべていることも重要です。これらの具体例、
①石観音奥の院の拝殿の中央には、「天坊魔王」と力強く書かれた額が飾られていること
②矢部氏と石観世音の間で、合意された内容の ⅳご本尊は「天坊魔王」を招魂するとあること、欅材の中に挟まって出てきた黒石2個を奥の院のご霊石とし「天坊魔王」の点眼をうけることになったとの言い回し等。
➂浅妻氏の調査から考えられる事例
などを通して「天坊魔王」について考えてみると、「天坊魔王」は奥の院社殿云々以前からすでに存在していた可能性が高いのではないかと主張している浅妻氏の見解には説得力があるように思います。こうして考えるならばと氏は続けます。
“「天坊魔王」は、石観音さん独自の魔王であり、石観音さんをお守りする石観音の魔王ということにもなるのではなかろうか”と。そして、
“石観音奥の院ご本尊の名称問題は、単独に捉えようとしても解明不可能のように思われ、むしろ「天坊魔王」の由来伝承との関連において考えた方がより自然で望ましい理解ができると思う様になった”と述べています。どうやら“石観音さんをお守りする石観音の魔王”ということに落ち着くのではないでしょうか。
この件に関する新しい資料などが発見されればと思いますが、今のところはここまでが限界です。
7月の行事予定
〇 7月7日(日)・石観世音奉仕作業
〇 7月13日(土)・全員奉仕作業
〇 7月17日(水)・月次法要・十七夜火祭り
月次法要(午前8時30分)は、毎月17日に行うご祈祷希望者のための合同祈祷の日になっています。もちろん祈祷を希望していない方でも自由にお参りできます。ご祈祷内容はご本人のご希望の内容となります。
石観世音十七夜火祭り(午後7時30分)は、地元各組の組長さん方のご協力を得て、提灯・松明・護摩木お焚き上げ等の準備を行い、十七夜火祭りに備えます。
〇 7月18日(木)・石観世音大祭(午後2時)
・この日の大祭に参拝して念ずれば、観世音菩薩様と特別の縁を結ぶことができる日、功徳のある日と云われています。
〇 7月28日(日)・社会奉仕作業
〇 7月31日(水)・月末の合同祈祷
・17日の月次法要と同様、ご祈祷希望者のための月末の合同祈祷日です。